■ 『源氏物語 −宇治十帖−』 宇治の古跡 |
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■ 橋姫 −源氏物語 四十五帖− |
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世をいとふ心は山にかよへども八重立つ雲を君やへだつる
光源氏の異母弟の八の宮は、宇治の山里で仏道に深く帰依し、「俗聖」と呼ばれていました。 自分の出生への不安から世の無常を感じていた薫は、八の宮を訪ね、その人柄に惹かれ宇治に通ううちに、八の宮の美しい姫君、大君と中君と出会います。 |
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【「橋姫」の古跡 橋姫神社】 橋姫神社は、宇治橋を守る女神・瀬織津姫(せおりつひめ)が祀られています。 かつては宇治橋の上、橋の中央の三の間に祀られていましたが、明治3年の洪水で流され、今の場所に移されました。境内には同じ水の神である住吉神社が並んで祀られています。 |
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=橋姫についての伝説= 昔、宇治に橋姫という娘がいました。その娘は、自分を捨てて別の娘に走った男を怨むあまり、貴船神社の奥宮に丑の刻参りをし、そのご神託のもと、宇治川に21日間つかって生きながら鬼に化身しました。そして、自分を捨てた男とその恋人を次々と殺したという伝説が残っています。 橋姫神社は、江戸時代までは宇治橋の三の間と呼ばれる場所に置かれ、宇治橋を渡る恋人同士を無理やり別れさせてしまうという話が伝えられています。 様々な伝説を生み出した橋姫神社は、悪縁を断ち切ってくれる神さまとしても有名です。 |
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■ 椎本 −源氏物語 四十六帖− |
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たちよらむ蔭と頼みし椎本むなしき床(とこ)になりにけるかな
薫から姫君たちの噂を聞いた匂宮も宇治に立ち寄り、歌を贈ります。 やがて八の宮は姫君たちの行く末を心配しながら亡くなります。薫は姉の大君に思いを告げますが、大君はこれに応じることはありませんでした。 |
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【「椎本」の古跡 彼方(おちかた)神社】 源氏物語宇治十帖「椎本」の古跡になっているのが彼方神社です。 諏訪明神を祭神とし、古くは宗像(むなかた)の神を祀ったといわれています。 |
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■ 総角(あげまき) −源氏物語 四十七帖− |
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総角に長き契りをむすびこめおなじところによりもあはなむ
大君は妹の中君と薫の結婚を願いますが、薫は匂宮と中君を強引に結婚させてしまいます。 しかし高貴な匂宮は外出が難しく、なかなか中君のもとへは通えませんでした。これを悲観した大君は心労のため病に臥し、薫の見守る中で息を引き取ります。 |
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【「総角」の古跡 総角之古蹟碑】 宇治上神社の北側、仏徳山(大吉山)ハイキングコース入り口付近に「総角之古蹟碑」は建っています。この碑は、源氏物話に書かれている宇治八宮の山荘が、平等院の向かい岸のこのあたりにあったと想定し、この地に建てられたのだと思います。 現在の碑は、昭和45年に建てられたものです。 |
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■ 早蕨 −源氏物語 四十八帖− |
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君にとてあまたの春をつみしかば常を忘れぬ初蕨なり
父に続き姉を失った中君に、山の阿闍梨は早蕨や土筆などを贈って慰問しました。 やがて匂宮は中君を京へ迎えますが、薫の中君への親密な態度に、匂宮は二人の仲を疑います。 |
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【「早蕨」の古跡 早蕨之古蹟碑】 宇治神社北東角のさわらびの道沿いに「早蕨之古蹟碑」があります。 春、ワラビなどの山菜がたくさん取れるところというところでしょうか。 早蕨の古跡は、江戸時代から明治にかけて様々な場所に移されましたが、奈良鉄道(現・JR奈良線)の工事に伴い、現在の場所に置かれたのではないかといわれています。 現在の石碑は昭和63年に建てられたものです。 |
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■ 宿木 −源氏物語 四十九帖− |
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やどりきと思ひ出でずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし
夕霧は六君の婿に匂宮を懇願し、明石中宮の強い勧めで、匂宮はこころならずも六君と結婚します。 一方薫は、故大君の面影を求めて中君に言い寄ります。 |
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【「宿木」の古跡 宿木之古跡碑】 江戸時代には白川にありましたが、その後、槇の尾山の麓に移り、平成6年に現在の場所に立てられました。宿木はけやきなどに寄生する植物のことで、宇治川ほとりのあちこちで見ることができます。 |
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■ 東屋 −源氏物語 五十帖− |
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さしとむる葎やしげき東屋のあまりほどふる雨そそぎかな
少将との婚約が破談になった浮舟は、中君の許に預けられました。中君は浮舟のことを薫に話し、浮舟に会いましたが、大君と酷似していることに驚き、懐かしい思い出語りをします。 しかし偶然浮舟を見つけた匂宮が強引に迫ってきたため、薫は浮舟を宇治に隠しました。 |
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【「東屋」の古跡 東屋観音】 宇治橋東詰から府道沿いを進むと、左手に東屋の古跡・東屋観音があります。石像は鎌倉時代後半のもので、なぜこの観音像が東屋の古跡になったかはわかっていません。 東屋観音は、宇治市の重要文化財にも指定されています。 |
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■ 浮舟 −源氏物語 五十一帖− |
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たち花の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくゑ知られぬ
匂宮は浮舟のことを忘れていませんでした。 中君への手紙から匂宮は浮舟が宇治にいることを知り、闇にまぎれて薫のふりをして浮舟と契ります。 情熱的な匂宮と誠実な薫の二人の愛に苦悩した浮舟は、死を決意し、入水しました。 |
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【「浮舟」の古跡 浮舟之古蹟碑】 三室戸寺境内の鐘楼横に「浮舟之古蹟碑」があります。 もともとは奈良街道沿いの「浮舟の杜(:水上交通の守り神)」と呼ばれていた「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓」辺りにありましたが、数回移転を経て、現在の地に移されました。 |
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■ 蜻蛉 −源氏物語 五十二帖− |
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荻の葉に露ふきむすぶ秋風も夕ベぞわきて身にばしみける
浮舟が消え、混乱、遺骸のないまま浮舟の葬儀が行われました。薫は、大君とは死別し、中君は匂宮のものとなり、浮舟は行方知れず・・・。宇治の姫君たちとのはかない縁を思い、悲嘆の涙にくれるのでした。 |
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【「蜻蛉」の古跡 蜻蛉之古蹟碑】 高さ2メートルほどの自然石・蜻蛉石が蜻蛉の古跡です。 この碑には、それぞれの面に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩と阿弥陀如来を拝む十二単を着た女性が彫られていて、平安後期の作と伝えられています。 |
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■ 手習 −源氏物語 五十三帖− |
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岸遠く漕はなるらむあま舟に乗をくれじといそがるゝかな
意識不明の浮舟を助けたのは横川の僧都とその母尼でした。 死にきれなかった浮舟は僧都に懇願して剃髪し、出家してしまいました。 そのころ薫は浮舟の一周忌を行いましたが、浮舟の噂を聞いて驚き、僧都の許へ訪れます。 |
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【「手習」の古跡 手習の杜碑】 源氏物語の中で、宇治川に身を投げた浮舟が、宇治院の森の大木の下で比叡山横川の僧都に助けられるのですが、その場所がこのあたりにあったと想定され、「手習の杜」とよばれていました。 手習の杜には、昔、観音堂があり、安置されていた木造聖観音立像は「手習観音」とよばれていました。この観音像は江戸時代初期に興聖寺に移され、現在は宇治市の指定文化財になっています。 「手習の杜」と彫られた石碑は、は昭和45年に建てられ、手習いの筆の穂先のようなちょっとかわった形をの碑です。 |
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■ 夢浮橋(ゆめのうきはし) −源氏物語 五十四帖− |
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法の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまどふかな |
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【「夢浮橋」の古跡 夢浮橋之古蹟碑】 宇治橋西詰の観光案内所向かって右側横に「夢浮橋之古蹟碑」があります。 「夢浮橋」は現実には存在しない橋ですが、「浮橋」とは、筏や舟を水上に浮かべ、その上に板を渡しただけの橋のことで、いつ流されるかわからない”はかない橋”は、源氏物語の根底に流れる「無常感」を表しています。 石碑は、昭和63年に現在の場所に建てられました。 |
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■ 源氏物語 |
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