■ 義経ゆかりの場所(洛中) |
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■ 五条大橋(牛若丸・弁慶像) |
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「京の五条の橋の上、牛若丸と弁慶が・・・」の童謡で知られる、牛若丸と弁慶の決闘シーン。 その童謡と同じく、五条大橋の西詰には、五条の橋で義経と弁慶が決闘をする場面を表した像があります。 |
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場所:京都市下京区五条大橋西詰 |
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■ 松原橋 |
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牛若丸と弁慶が戦ったとされる「五条の橋」。 その五条の橋は、平安時代、現在の「松原橋」の位置にありました。ということから、義経と弁慶の決闘の地は、現在の松原橋ということになります。 |
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場所:京都市下京区 |
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■ 五条天神社 |
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『義経記』によると、五条天神社の近辺で義経と弁慶が初めて出会ったと記されています。 弁慶は千本の刀を集めようと、毎夜、京の町を徘徊していました。あと1本という月夜の晩、五条天神社に丑刻詣でをしていた弁慶が、笛を吹きつつ歩く牛若を見つけ、その腰にあった黄金造りの太刀を奪うため勝負を挑んだのが二人の出会いだったそうです。 |
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場所:京都市下京区松原通西洞院西入天神前町351− 201 |
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■ 清水寺 |
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源義経と弁慶が最終決闘を行ったのが清水寺です。敗れた弁慶は以後牛若丸に忠誠を近い、一生の家臣となりました。 清水寺の境内には、弁慶の足形石、弁慶の鉄下駄、弁慶の鉄の錫杖など、弁慶ゆかりのものがあります。 |
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場所:京都市東山区清水1 |
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清水寺【お寺紹介】 |
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■ 首途八幡宮 |
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首途八幡宮は、大内裏の北東に位置するため王城鎮護の神とされ、「内野八幡宮」と呼ばれていました。 この地にはかつて金売吉次の屋敷があったといわれ、当社はその鎮守社であったといわれています。 1174年3月の夜明け、牛若丸が金売吉次の誘いによって奥州平泉に出発するのに際し、道中の安全を当社に祈願したと伝えられています。 「首途」とは、「出発」の意味で、以来、牛若丸の由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになったそうです。 |
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場所:京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102−1 |
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■ 弁慶石 |
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幼少の頃、弁慶は三条京極界隈に住んでおり、ここには弁慶が遺愛とする石がありました。 弁慶は源義経とともに奥州の高館で最期を遂げますが、死後、この石はその高館あたりに移されたそうです。しかしある日突然この石が「三条京極に帰りたい」とわめき出し、高館に熱病がはやり始めたことから、人々は弁慶のたたりであると恐れ、この石を京都に送り返したと伝えれています。 この他にも弁慶石については諸説あり、比叡山から弁慶が投げた石だとも、衣川の戦いに立ち往生した弁慶がこの石になったともいわれています。 |
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場所:京都市中央区三条通麩屋町東入ル |
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■ 義経居館跡・左女牛井之跡 |
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「左女牛井」は京の三名水のひとつとして平安時代から有名で、源氏の邸である六条堀川邸の中にも取り入れられていました。源義経もまたこの地で過ごしており、この井戸の水を使っていたことと思います。 |
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場所:京都市下京区堀川通五条下ル |
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■ 神泉苑 |
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1182年(寿永元)、神泉苑・善女竜王社前の舞台で雨乞いの神事が行われました。 99人の白拍子が舞っても雨が降らず、100人目の静が舞を奉納したところ、にわかに曇り大雨が降りました。 このとき、静御前と義経は神泉苑の池のほとりで出会ったと伝えられています。二人の出会いの場として有名な神泉苑です。 |
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場所:京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町167 |
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神泉苑【お寺紹介】 |
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■ 源義経 |
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